グローバリズムの時代と天皇制

DO-MO,

重たい話題だ
自分は小学6年生のときから
君が代”は歌っていない
なぜなら、歌詞の意味を知ったからだ

日の丸、君が代の法制化もあったが、
もっともっと、議論してもらいたい話題だ
できれば、日本が変わるのなら
国歌を新しいものに変えるくらいのことも

ちなみに、天皇制は肯定も否定もしない立場を取っている

日本のみなさん、
くれぐれも企業の奴隷にならぬよう



http://journal.jp.msn.com/worldreport.asp?id=990727jimbo&vf=1

グローバリズムの時代と天皇
1999年7月27日 神保隆見 (アジア国際通信)

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 グローバリズム、すなわちアメリカン・スタンダードが、当のアメリカで成功し
たわけではない。自明のことだが、アメリカがその国内において、決していかなる
国、地域、民族にとっても模範となるような、理想の国家を実現したわけでもない。
むしろその惨憺たる実情は、社会崩壊のモデルにすらなっている。

 実際には、アメリカン・スタンダードは今日、圧倒的に多くのアメリカ人をも苦し
めているのが実態である。そんな怪しげな「スタンダード」を押しつけられたので、
はたまったものではない。

 筆者の手に余ることではあるが、ヨーロッパ人がヨーロッパの絶対専制君主との闘
いのなかで「市民革命」を勝ち取っていったように、多国籍企業の利益を背景とした
世界の奴隷化を強いる「グローバリズム」の野望との対峙の中から、他国、他地域、
他民族ともつながりうる、日本列島人の新たな価値観を築くべき時が来ているように
思う。

 もとよりそれは、明治維新のように天皇を担ぎ出すことによってなし得るものでは
ない。だがしかし、沖縄を除く日本列島人が天皇制の長い歴史の中で、「日本人」を
形成してきたことは紛れもない事実である。日本人が新たな価値観を築くためにも、
天皇制の問題を回避するわけにはいかない。

 以下にささやかな私論を記し、前回の記事「天皇制は、国歌や国旗で議論できるほ
ど矮小か?」に対して、埼玉在住の会社員の方から丁重なご指摘をいただいた、「君
が代の作曲者・フェントン」にあったごとく、広く浅学の誹りを仰ぎたい。

 
●「君が代」を天皇賛歌として自由に歌うのがいい

 中国やアメリカ、フランスなどの国歌の詞を見るとわかるが、それぞれ植民地支配
からの解放・独立や、封建的絶対専制君主からの解放といった、独自の歴史的背景が
あるとはいえ、国民を鼓舞して闘いに駆り立てるための、生臭い道具立てになってい
る。それらと比較すれば、「君が代」は詞も曲も、正反対の方向を向いていていい。

 しかしなお、その使用は外交儀礼上の付き合い、あるいは国際条約上の取り決めの
範囲内という必要最低限度にとどめ、「君が代」を天皇賛歌としてその行事の時に自
由に歌うのがいい。欧米的国民国家の「常識」を当たり前のように真似る必要はな
く、正式には「国旗・国歌」など持たず、曖昧な慣習のままに放置しておくのがい
い。

 小渕首相は、「君」は象徴天皇を意味し、「代」は国民を指すという新解釈を打ち
出した。筆者は思わず「そんなバカな!」と叫んでしまったが、ご本人はいたくご満
悦のようだ。

 個人がどんな解釈をしようと勝手だが、一国の首相自らが、歌に対するこんなにも
ひどい冒涜を犯さなければならないというのは、よほどの異常事態で、法制化は明ら
かに政治判断として間違いだ。

 いま日本では、学校が壊れ、家庭が破綻の危機に瀕している。会社も従来のシステ
ムが壊れ、労働組合も機能の衰退が著しい。日本人が最も強い社会的紐帯の根幹とし
ていた(天皇ではない)それらの「中間団体」が、総崩れの様相を呈している。そこ
に忍び寄っているのが「グローバリズム」というアメリカン・スタンダードである。

 しかし一方、日本列島においては、合理的で実利的であるはずの「グローバリズ
ム」が、容易に浸透する気配もない。一番分かりやすい例であろうが、外資系の銀行
の利率が日本の銀行の利率よりも有利であるにもかかわらず、雪崩をうって外資系に
乗り換えるという単純な動きが見られない。何かが、どこかで「グローバリズム」を
阻止しているのだ。

 アメリカン・スタンダードを世界標準にしようとする力は、ヨーロッパの東の縁で
は、「NATOのユーゴ空爆」に見られたように、従来の国際法の枠や既存の一定の共通
認識をはみ出した原理を、無理矢理ゴリ押しする軍事行動というかたちでもあらわれ
ている。

 それは自らが理解できない価値を、良かれ悪しかれひとまとめにして、ブルドー
ザーで踏みつぶすようなやり方で、世界をその一元的な価値に基づいて統一しようと
いうのだ。むろん、ドンパチの軍事行動のみならず、戦略産業をフル動員して世界規
模で展開している。

 
●四囲を他民族と接した王制と天皇制の違い

 タイの現在の王室は1782年、チャオプラヤ・チャックリがトンブリ王朝のタクシン
王から王座を奪ったところに始まり、その名前から「チャックリ王朝」ともいわれて
いる。チャックリ王朝の歴史は220年に満たないが、タイ人の歴史はそれに先立つ幾
多の王朝とともに歩み、現王朝はその「歴史」を土台としている。

 タイ人にとってタイとは何を意味するであろうか? それは国王を意味する。安田
靖著『タイ―変貌する白象の国』(中公新書)に、「バンコクを首都とし、タイを国
家と考える意識さえも希薄な彼らは、国王こそがタイであり、国王の示す方向に彼ら
の道があるという信念を持っている。タイの求心力は明らかに国王で…」とある。

 タイの首都を「バンコク」と呼んでいるのは外国人である。正式な名称はべらぼう
に長い名前なのだが、タイ人は一般にその出だし部分の「クルン・テープ」(天使の
都)をとって使っている。だが、外国人がそれを「バンコク」と呼ぼうと、一向に目
くじらをたてたり意に介すことなく、「マイ・ペン・ライ」(気にしない)なのだ。

 中には自分たちまでが、ちゃっかり「バンコク」という呼称を使うケースさえある
ほどだ。「彼らにはプライドがない」などと勘違いするのは浅はかである。タイ人に
とって国王は、それほどに精神的に重くかつ、日常的に身近な意味を持っている。

 こういったメンタリティーは、なかなかわれわれには理解しがたいことなのだが、
上にあったように、多くのタイ人の日常生活はリアルに国王と直接つながっている。

 もちろん近年、王室への敬愛の念には様々な変化も見られるが、「国王は国の統合
の象徴であり、国民にとって最も身近な為政者である」という基本構造に変わりはな
い。そのようなタイ人にとって「国旗」や「国歌」が何の中間媒体もなく、ストレー
トに国王と自分を結びつけるものとなっている。

 「現在の国王には、民衆からの際だった支持がある。農村や辺境地区の開発と生活
水準の向上に情熱を捧げ、国民との触れ合いを求めて全国を駆け巡る国王というイ
メージが、国民をとらえているからである。…

 警備の警官はいる。しかし、彼らは人波を遠巻きにするだけであり、何が突発して
も、何もできないだろう。無防備の説明役や秘書の役人がいるだけである。元首の行
動として、これほどの無防備さは、他の国では考えられるであろうか。…

 帰りの外交官たちの話題は、警備についてであり、国王の情熱と知識の深さについ
てであった。王室に害をなす国民はいないとする信念がなければ、あんなに薄い警備
ではすまされないはずだ。農民の王室に対する敬愛は、家に飾ってある写真ではな
く、長い時間坐りつづけ、待ちつづけるあの姿に象徴されている。…王室に対する尊
敬の念は決して強制からではない。…」

 上は『タイ―変貌する白象の国』からの抜粋である。これらの内容についてはいろ
いろと議論のあるところだが、タイの基本的な枠組みとしては間違いではないであろ
う。

 スハルト“王朝”崩壊後のインドネシアでは、多くの人々が、故スカルノ大統領の
娘に精神的拠り所を求めている。あれだけの国に、他に優秀な人材がいないわけでは
ない。だが、メガワティ女史にどれほど凄い政治手腕があるのか、あるいはそうでは
ないのかなどは問題外なのだ。

 そんなことよりも人々は、ほとんど無意識の中で、ただ精神的な正当性や象徴を見
出すためにさまよっており、そのカリスマ性に最もリアルな夢を託したいのだ。従っ
て、その夢が破れたとき、インドネシアは「バルカン化」に向かう可能性も否定でき
ない。

 ビルマ、あるいは北朝鮮もしかりで、これは何もアジアだけのことではない。アメ
リカ人がケネディ政権を、伝説的なブリテンアーサー王の宮廷『キャメロット』の
別名で呼び(毎日新聞7月20日「余録」より)、ケネディ暗殺事件に始まる一族の悲
劇、最近のケネディ・ジュニアの事件などが、特別にアメリカ人の心を揺さぶる例
を、われわれは直接目撃している。多かれ少なかれ、ロシアやその他のヨーロッパに
おいても同様である。

 
●“中間媒体”を通して天皇とつながった日本人

 日本では琉球と北海道を除いて、長い伝統を持つ天皇制が存在するが、日本人の場
合はタイ人のように、一人一人がストレートに天皇と結びつくという歴史はほとんど
なかった。それは日本列島独特の歴史的な背景からのもので、それがまた、天皇制が
長く安定的に続いてきた大きな要因でもあった。

 天皇制が確立して以来、長い歴史のほとんどを通じて、日本人の多くは「中間媒
体」を介して天皇制とつながってきた。ここが、直接的に人々と国王とがつながるタ
イのような王制とは、根本的に異なるところであった。一部「天皇主義者」のよう
に、自らと天皇とを直接結びつける人々もいるが、そこには特別の思想を必要とす
る。

 タイのみならず、四囲を異民族と陸続きで接するほとんどの王国があてはまるのだ
が、一瞬の隙も民族の命取りになりうる環境下にあった。日常が、喰うか喰われるか
の緊張状態(臨戦態勢)にあり、軍事的な戦略・戦術に長けた強力な指導者、国王を
軸として結集する必然性が存在した。

 日本の場合、歴史的に外敵からの脅威にさらされることのほとんどない、恵まれた
国土的特徴から、天皇制に絶対専制主義的な要素を求める必然性がなかった。これは
他のいかなる国、民族にも見られない日本独特の条件であり、そこから天皇制独特の
豊かな文化に包まれた柔らかさと深さが、長い歴史の中で育まれていった。

 ヨーロッパの絶対専制君主制下に見られたような圧政は、日本の天皇制とはほぼ無
縁であり、天皇制は直接人々に対して圧政を敷くことはなかった。日本の場合、圧政
を担ったのは世俗的国家権力を運営した「中間団体」であった(「中間団体」につい
ては後述する)。他に類を見ないこの社会システムの連続性、安定性の下で、独特の
民族的性格や文化、風俗、習慣などが育まれていった。

 ヨーロッパの「自然法人民主権説」は、絶対専制君主による強大な国家権力の圧
政を断ち切る「自立した個人」という、精神的・哲学的な体系の構築を伴う営為の中
から誕生した。そこでは強烈な個としての人格が自覚され、王制からの解放を求める
闘いを通じて、ヨーロッパの「市民革命」が勝ち取られていった。

 だが、天皇制は絶対専制的な君主制度ではあり得なかったため、「市民革命」の必
然性はほぼ皆無であり、従ってその精神的、哲学的な体系の構築を伴う営為が抜け落
ちたまま、書物を通じた「知識」として輸入された。

 多くの進歩的知識人が欧米との比較の中で、「日本人の個としての確立の弱さ」を
指摘し、日本社会あるいは日本人の「後進性」をあげつらってきた。それは進歩的知
識人たちが自己満足に陥るか、メシの種にするには好都合の材料であったろうが、
まったくの的外れであり、ほとんど何の意味もない「空虚」な仕業でしかなかった。

 今日現在においても、ヨーロッパの伝統に根ざす「自立した個人」のモノ真似など
する必要はさらさらないが、ヨーロッパ的な「自立した個人」など、日本の歴史の中
からは登場しようもなかった。その裏返しになるが、従って「愛国心」という概念
も、日本人には馴染みがなく定着しにくいものであった。

 
●「日本中間共同体論」という論文

 筆者の知人で、長いこと「日本軍の研究」を行っている畠山嘉克という、しがない
(失礼!)中小企業のオヤジがいる。時々会ってその中味について議論しているのだ
が、彼は最近、「日本中間共同体試論」というテーマに取り組んで、論文を書いてい
る。

 彼の、膨大な知識に裏付けられた「中間共同体」に対する分析の視点と中味は鋭く
興味深い。しかし、天皇制の位置づけにおいては筆者と正反対で、彼は天皇制を「空
虚な内容のないもの」としている。これは彼が、目に見えないもに注意を向けない、
近代科学主義的手法を踏襲しているからであろう。

 筆者は同じ空は空でも、「空気」のような位置づけをしている。「あるがごとく、
なくがごとく」というのはこのことだ。普段意識することはないが、なければやって
いけないほどに日本人の精神の奥深くに存在するものであると考えるからだ。

 「天皇制を打倒する」ということは、その前に日本人の精神の奥深くにあるもの
を、他の何ものかに換骨奪胎しなければ不可能だ。その可能性を秘めていたのは、織
田信長とマッカーサーであったかもしれないが、現実には何者にもなしえなかった。

 思えば、科学(社会科学もしかり)はモノや事象を対象として、万人に共通の尺度
を提示し、疑うべくもない自明の「公理」や「定理」という一定の結論を導き出して
きた。しかし、そもそも尺度ではかれないものは対象の埒外におかれ、何の関心も払
われてこなかった。

 事物や事象をつくりだした人間の内実の方は、科学の対象にしなかった。科学的で
あることが、賢くスマートでモダンであるというのが、近代化の主要なイデオロギー
であった。社会科学的な天皇制の分析によって、それがとるに足らない不条理で空虚
なものという結論を出すのは簡単だ。しかし、それこそが何の意味もない結論でしか
なかった。

 「肉体は医学が扱い、その心は心理学と小説が扱い、タマシイは宗教が扱う」とい
う言葉がある。「医者が扱えない肉体」と「心理学と小説が扱えない心」、「宗教で
は扱えないタマシイ」という広大な領域は、手つかずに放置されてきた。筆者はその
広大な真っ暗闇の中で迷子になっている。

 一般に、近代の「科学的精神」の土壌の上で、数十年ほど前の軍国主義の記憶の中
においてのみ天皇制を語る傾向が強い。右であれ左であれ、生身の体験とその傷跡は
今日なお癒えておらず、それも無理からぬ面はある。しかし、悠久の日本列島の歴史
の中において、天皇制及び日本人と向き合うことが、今求められているであろう。

 
平安時代中以降、世俗権力は中間団体が担う

 720年に日本列島初の“公式”歴史書である『日本書紀』が誕生した(『古事記
は公認されなかった)。祭政一致天皇家を頂点とする最強の集団は、若々しい外へ
とほとばしるエネルギーを秘めていた。列島支配の野望がその「国定歴史書」を生ま
しめたのであろう。

 その時点ではまだ、近畿天皇家は日本列島を完全に支配していたわけではなかっ
た。近畿天皇家が、北海道と琉球を除く列島の覇者になるまでには、あと200年近く
かかる。むろんこれらの見解は定説ではない。議論の余地は大いにあるが、筆者は上
のようにとらえている。

 近畿天皇家が列島の覇者になるには、東日本とりわけ東北の蝦夷制圧に多大のエネ
ルギーが投入された。征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城を築いたのは801年のこ
と。

 また、九州では近畿天皇家元号とは別に、独自の「九州年号」が900年まで続い
た(「九州年号」は900年を最後に途絶える)。琉球に至っては、天皇制とは縁もゆ
かりもない政治、宗教体系が連綿と続いた。近畿天皇家は、9世紀の終盤までに祭政
統合の最高権力者として、東北から九州に至るまでの列島の覇者となった。

 だが、8世紀前半から中ごろに、「三宝の奴」を自称し、自らを仏教の下位に置い
聖武天皇以来、仏教への帰依を深め、神道(=天皇教)の祭祀の頂点にあるものと
しての神性は弱まって行った。

 平安時代の10世紀から11世紀にかけて、宮廷では仏教の「末法思想」(西暦1052年
にあたる年から末法の世になるという)が浸透し、危機感を強めていた。

 平安時代央、完全に祭政は分離し、世俗的な権力は藤原氏一門の貴族(中間組織)
へと移行することになる。以来、今日に至るまで、基本的には天皇が祭政統合の最高
権力者に戻ることはなく、今日に至るまで世俗的権力は「中間団体」が担うことにな
る。

 「歌は世につれ、世は歌につれ」とはよくいったもので、歌というのは正直に時代
を反映している。聖武天皇以前に編集された『万葉集』には、天皇への賛歌や挽歌が
多く見られたが、10世紀初の『古今和歌集』は勅撰和歌集であるにもかかわらず、天
皇への畏怖と哀悼が歌われることはなくなる。

 わずかに例外だったのが、長寿を祈願した、タイトルも作者もわからない「わが君
は…」の、いわゆる「君が代」であった。

 ついには鎌倉武家政権が誕生し、明治維新徳川幕府が倒れるまでの約700年間の
長きにわたって、武家政権が実質的な権力を掌握した。

 しかし、これら最強の軍事政権といえども、基本的に天皇制に手を触れることはな
かった。精神の正当性を持たない世俗的権力は、天皇制の下位に位置することによっ
て、支配の正当性を獲得してきた。

 こうして約1000年の長きにわたる歴史の中で、琉球・北海道を除く日本列島の安定
的なシステムとしての天皇制は確立し、精神的なバランスを支える柱として日本列島
人の心の奥深く浸透していった。

 次回は、「明治維新以降の日本の中間共同体と天皇制」を取り上げたい。