「影」を恐れず「光」へ踏み出す

なぜ、光と影が好きか?
中国の料理にも常に、白と黒(翠)は意識されてる
日本の庭には、静と動
以下には
 「皆さんは影、影と心配しているが、光がなければ、影ができないことを忘れてい
るのではありませんか」と。
とあるが、...
闇の中にこそ光があるのでは
太陽の光を感じると言うことは、宇宙(そら)がやみに包まれているからで
光の美しさ、それは、闇(かげ)の中を、波長の違う光線のハーモニー
すなわち、人が感じる色そのものが闇の中に映し出されると
光、それは、それぞれが創り出す”いろ”、コントラスト
闇を大切に、その中にこそ、光を
影と闇は違うけどね
スピードかスピード違反か

「影」を恐れず「光」へ踏み出す
改革ためらった10年に決別を





中谷 巌

 日本人はことのほか「光と影」の議論が好きなようだ。「IT革命の光と影」「規
制緩和の光と影」「グローバリゼーションの光と影」などがその例である。また、
「光と影」のうち、影の部分を強調する論者が圧倒的に多いように思える。

 先日、「IT革命の光と影」をテーマにしたあるテレビの討論番組を見ていた時、
IT革命に前向きな出演者の一人が大変適切な表現で「光と影」論の問題点を指摘し
ていた。彼はこう言ったのである。

 「皆さんは影、影と心配しているが、光がなければ、影ができないことを忘れてい
るのではありませんか」と。

 正論である。まず、光を生み出すことをしなければ、影は永久に出てこない。影を
警戒しすぎると、結局、「天気は年中、曇りもしくは雨でよし」とする考え方に行き
着いてしまう。曇天、雨天では影はたしかにできないが、それでは作物はほとんど何
も育たないだろう。

 日本では、IT革命や規制緩和、グローバリゼーションの進捗(しんちょく)な
ど、アメリカにことごとく後れをとってしまった。それが一九九〇年代の「失われた
十年」の根本的な原因になった。現に、日本経済は依然として長期構造不況のさなか
にいる。この十年間、我々は改革の「影」を心配するあまり、とうとう太陽を見るこ
とが出来なかったのであった。

 「影」を心配することはたしかに必要だ。たとえば、IT革命が進むとデジタルデ
バイドが進む。そのことに注意しておくことは重要だ。しかし、逆に、デジタルデバ
イドをはじめから心配しすぎると、IT革命は進めない方がよいということになって
しまう。ベンチャービジネスの輩出率が異常に低く、規制や保護に頼りたがる日本人
特有の問題も、影を心配しすぎる国民性と無関係ではない。

 それでは、「光と影」論における正しい考え方とはどのようなものであろうか。そ
のヒントは「光」と「影」を明確に分離して考えるということにある。「光は影を作
り出す」という理由で光を拒否するのではなく、光をまず積極的に生み出す努力を最
大限する。しかし、光が出てきて、影が実際にできはじめたときには、これに対して
最大の対応策を講じるのである。

 自動車の運転でいうと、アクセルを踏むことで初めて車は走り出す。車が走り出す
と危ないという理由ではじめからブレーキを同時に踏んでいたのでは、車は走り出さ
ず、エンジンが空回りするだけだ。車が走り出し、スピードが出過ぎて危なくなった
ときには、今度はしっかりとブレーキを踏まなければならない。こうすれば、我々は
目的地に着ける。目的地に着くためには、「アクセルとブレーキを同時に踏む」ので
はなく、「まずアクセルを踏み、しかる後に適切なタイミングでブレーキを踏む」こ
とが必要なのである。

2001年1月27日朝日新聞ウイークエンド経済より



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